完成の時代

能の歩-2

観世信光 長俊父子 応仁の乱は、能に大きな影響を与えた。室町幕府は弱体化、寺社の衰微などは、一般民衆の支持に活路を見出す方向に能を赴かしめた。音阿弥の子で太鼓が専門だった観世小次郎信光が、幼少の観世大夫(五代目之重、六代元広)を補佐する権守の地位にあって作った『船弁慶』『紅葉狩』『長良』などの能が、劇的な変化に富み、分かりやすく、にぎやかでショー的であるといわれるのも、能の新路線の反映に他ならない。室町後期になって能の音曲部分が独立した形の謡が普及し始めたことも、能の存続に役立った。信光の子でワキが専門だった弥次郎長俊も、父と似た傾向のにぎやかな能を作っている。

金春禅鳳 宮増  禅竹の孫にあたる、金春大夫元安(禅鳳)も、信光に対抗意識を持ちつつ、『嵐山』『一角仙人』など新風の能を作った。彼は『毛端私珍抄』などの伝書も書いており、芸談集たる『禅鳳雑談』には、兵法・茶・立花など他の芸道と関連させた説が多い。永正二(1505)年には洛東粟田口に進出するなど演能活動にも積極的だった。また室町後期には、世阿弥系統の夢幻能、信光らの新風能に加えて、宮増作などと伝えられる現在能形式の曾我物なども群小猿楽座から四座の演目に流入し、多彩な曲目で広範な階層を支持者とする努力が払われていた。謡がいっそう普及したこともあって、能は戦国乱世の時代にかろうじて生き続けたのである。

桃山期の能の復興 かろうじて戦国時代を生き抜いた能は、豊臣秀吉の天下になって、にわかに時めいた。秀吉が稀代の能狂で、金春流の能を習って天皇の御前で演じたり、自己の経歴を能に作らせたりしたのみならず、廃絶寸前の状態だった薪猿楽を復活させたり、大和猿楽四座に千石前後の配当米を与えたりして能を保護したからである。養子の秀次や徳川家康らの武将も能を好んだから、他の群小猿楽座は解体したものの四座の能は空前の繁栄ぶりだった。おりから桃山文化の興隆期であり、豪壮な能舞台の様式が定まり、能装束は華麗となり、能面作家にも名手が続出した。能の演出や謡曲詞章の整備も進み、能はこの時期に大きく変貌した感のようである。

創作の時代  模写の時代

能楽六〇〇年の歩み 平凡社 別冊太陽 日本のこころ 能 (昭和53年11月25日発行)から抜粋