模写の時代

獅子口
獅子口

能の歩-3

光悦謡本

 謡の普及流行を反映し、慶長以後、江戸期には、おびただしい種類の謡本が出版された。その中で、装幀の美麗さが群を抜き、美術品として珍重されているのが、光悦謡本と通称されている観世流謡本である。これは秀吉の朝鮮出兵で招来された活字印刷の技術による出版物で、光悦流書体の木活字で印刷されている。書物の出版が開始されたばかりの段階で全百冊の光悦謡本が何種類も刊行されていることも、謡の人気を示していよう。

江戸初期の能

 徳川幕府も、秀吉の制度を踏襲し、四座の役者に俸禄を与えて能を保護した。元和年間に将軍秀忠の公園で前金剛座役者の喜多七大夫が一流樹立を認められ、四座一流が幕府の式楽(儀式用の芸能)を担当することになった。四座一流の筆頭を占めたのが観世流で、九代目観世大夫身愛(黒雪・暮閑)が早くから家康と結びついていたことに由来する。その身愛没後に第一人者の地位を得たのが喜多流初代の七大夫長能で、彼が秀忠・家光にひいきされたことが諸大名に影響し、地方諸藩には喜多流を採用した家がもっとも多い。五代将軍綱吉が能を溺愛し、宝生流を後援したことが、加賀藩の宝生流採用に現れるなど、江戸期を通じて能は将軍の意向に左右される点が多かった。

江戸後期の能

 幕府や諸藩は保護者であると同時に、きびしい監督者でも有り、能役者は技芸の鍛錬と伝統の継承を要求された。それが、能の魅力の一面たる芸の厳しさを生む一方、能から発展性を奪い、民衆から離れる結果をも生んだのである。そうした動向の中で目立つのが、十五代観世大夫元章の改革の試みである。将軍の能指南役の権威を背景に、彼は観世流の謡曲詩章の大改訂を志し、復曲や新作曲をも加えた新しい謡本を明和二(1765)年に刊行した。その内容が時代錯誤の復古調であったため評判が悪く、十年後に元章が没した直後、将軍家治の意向で新謡本は廃止されてしまったが、演出面の改革などは今も生き続けている。

弘化勧進能

寺社建立などへの寄付を名目に、入場料を取って公開する能が勧進能である。江戸期のそれは能役者のための催しに変質し、かつ江戸での勧進能興行は観世大夫の特権化していたが、十二代将軍家斉が宝生流を嗜み、宝生座が繁栄した余勢で、弘化五(1848)年に宝生大夫友于が筋違橋門外で晴天十五日間の勧進能興行を許された。町々に切符を割り当てる制度のおかげではあるが、多い日には五千人以上の入場者を数えた。その模様を克明に描いたのが『弘化勧進能絵巻』で、原本著者は斉藤月岑、掲出したのは大久保葩雪の模写本である。この弘化勧進能が江戸期の能が咲かれた最後の花で、幕末の風雲は能を逼塞させずにはおかなかったのである。

近代の能

 明治維新の能にとって、未曾有の危機だった。俸禄と活動の機会を失った能役者は転業を余儀なくされ、脇・囃子・狂言方には絶えた流儀もある。しかし、五百年に及ぶ伝統の恩恵は大きく、外国の芸術保護に影響された政府の補助、皇室や旧大名の後援などで、世が治まるとともに徐々に能は復活した。座の解体に伴う新たな家元制度の強化などで種々の摩擦もあったが、明治末期頃には能は近代社会に再生することに成功したのである。昭和の戦災の大きな打撃だったが、いくばくもなく能は繁栄を取り戻した。新作能、新演出、他の演劇との興隆など、新たな動きも活発であり、海外公演もすでに年中行事化している。古典芸術への関心や憧憬が深まってか観客層も拡大が著しく、近年の能会の増加は目を見張らせるものがある。だが、こうした外見上の華やかさが真の能の発展と称するに値するか否か、にわかに断定できない。

完成の時代

能楽六〇〇年の歩み 平凡社 別冊太陽 日本のこころ 能 (昭和53年11月25日発行)から抜粋