創作の時代

増女
増女

能の歩-1

観阿弥と犬王

 近畿一円の猿楽座や田楽座が、芸能を競う中から抜け出て、十四世紀後半に芸能界の第一人者となったのが大和猿楽観世座の創設者たる観阿弥清次である。彼は、大和猿楽の伝統である物まね主体の能に優れた演技力を持ったうえ、白拍子系統の曲舞の音曲の長所を取り入れたリズム感豊かな新風の謡を創始して大成功を収めた。子の世阿弥が十二歳の時に京都の今熊野で演能して将軍足利義満の後援を獲得し、それ以来、観阿弥に続いて義満の後援を受けた近江猿楽比叡座の犬王(道阿弥)は、舞歌に秀で、情趣豊かな芸風を持ち、世阿弥に大きな影響を与えた。

世阿弥

 父、観阿弥が基礎を確立した物まね中心の猿楽能を、幽玄美を理想に磨き上げ、今日まで生命が続くほどに能の芸能性を高めたのが、世阿弥元清である。比類なき美少年であった彼は、将軍義満や二条良基らの貴人にひいきされた少年期の好運に甘えることなく、生涯を稽古で貫き、父や犬王や同代の名手の長所を積極的に取り入れ、観客の好尚の変化に応じて芸風を発展させた役者であった。文才も豊かで、多くの能を作り、能のあるべき姿を論じた伝書の数々を子孫のために著した。縁者と作者と理論家とを一身に兼ねたわけで、日本文芸史上に稀な天才といってよかろう。小男であったと伝えられるが、その足跡はきわめて大きい。

夢幻能の完成

 能を作ることが道の命と主張した世阿弥は、五十曲以上の能を作り、その大半が今も世阿弥当時と同じ詞章で演じられている。世阿弥作の能の多くは『伊勢物語』『平家物語』などの古典から舞歌にふさわしい人物をシテに選び、夢幻能と呼ばれる形式を採用した曲である。和歌的修辞で彩った流麗な文辞、音曲的魅力にあふれた作曲は、抒情と叙事の適度の配合やイメージの統一と相まって、見事詩劇を形成している。旅装などのワキの夢の形をかりて過去の出来事を舞台上に再現し、余情豊かな美的世界を現出する夢幻能形態を完成させたことが、劇作家としての世阿弥の最大の業績であり、能の特質・魅力は夢幻能に集約されているといえよう。

観世元雅と観世元重(音阿弥)

 世阿弥の長男十郎元雅は、祖父や、父にも超える堪能であったらしく、「隅田川」「弱法師」「盛久」などの遺作が彼の非凡な才能を示している。だが将軍足利義満の圧迫を受ける不運な境遇のうちに、永享四(1432年)父に先立って没した。彼の作品に人間の悲哀を描いた曲が多いのも境遇の反映だろう。元雅没後に観世大夫となった三郎元重は世阿弥の甥である。足利義教にひいきされ、それが世阿弥の晩年の不運の遠因だった。能役者としては卓越した技倆の持ち主で、義教・義政両将軍の後援を受け、彼の時代に室町政府と観世座の結びつきは不動のものとなった。義政の後援した糺河原勧進猿楽は特に名高い。

金春禅竹

 世阿弥没後の、能界を代表したのは、音阿弥と世阿弥の娘婿金春大夫氏信(法名禅竹)である金春座は大和猿楽四座の中でもっとも由緒の古い座であるが、一時衰え、世阿弥の教導を受けた禅竹の奈良を中心とした活動で再び興隆したらしい。禅竹は『六義』『拾玉得花』などを世阿弥から与えられただけあって、自身の『六義一露之記』『歌舞髄脳記』『五音三曲集』など多くの能楽論書を著述した。その理論はやや難解ながら、能楽論に新生面を切り開こうとした努力の跡が著しい。彼がまた能作の面でも『芭蕉』『定家』『雨月』など世阿弥の作風を継承しつつも独特の渋味を持つ佳曲を残している。世阿弥の継承者といってもよいであろう。

翁面の時代  完成の時代

能楽六〇〇年の歩み  平凡社 別冊太陽 日本のこころ 能 (昭和53年11月25日発行)から抜粋