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能と能面の説明

能の歩みと能面

能楽六〇〇年の歩み
平凡社 別冊太陽 日本のこころ 能
(昭和53年11月25日発行)から抜粋
能面の歴史
猿楽と田楽 奈良時代に中国から伝来した散楽に源を発し、日本古来の芸能と融合して発達した猿楽が中世以前の日本の芸能の代表であったが、その猿楽が、鎌倉時代の中頃に、寿命長遠をことほぐ翁猿楽によって民衆の信仰と結びつく一方、寺院の延年の影響などで、能と呼ばれる劇形態の芸を生み出した。農村の芸能から発達して職業化した田楽も能を演じ、田楽と猿楽が互いに芸を競うようになって、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、能は急速に進歩したのである。そうした能の発達に大きく寄与したのが大和の有力な寺社で田楽も猿楽も、寺社の後援を受けた座(芸能組織)が主流を占めた。
翁面の時代

神聖視されている翁面は平安末期に創作され、鎌倉時代には完成していたらしい。
翁面の打ち手として
日光 弥勒が有名である
翁
観阿弥と犬王 近畿一円の猿楽座や田楽座が、芸能を競う中から抜け出て、十四世紀後半に芸能界の第一人者となったのが大和猿楽観世座の創設者たる観阿弥清次である。彼は、大和猿楽の伝統である物まね主体の能に優れた演技力を持ったうえ、白拍子系統の曲舞の音曲の長所を取り入れたリズム感豊かな新風の謡を創始して大成功を収めた。子の世阿弥が十二歳の時に京都の今熊野で演能して将軍足利義満の後援を獲得し、それ以来、観阿弥に続いて義満の後援を受けた近江猿楽比叡座の犬王(道阿弥)は、舞歌に秀で、情趣豊かな芸風を持ち、世阿弥に大きな影響を与えた。
創作の時代

能が一大飛躍をとげた世阿弥時代は、能そのものが創造のエネルギーに満ち、新作があいつぎ、それと呼応して役柄・曲柄にふさわしい能面が創造された。優れた面打ちが排出したのもこの時代で、近江に鬼面の上手の赤鶴と女面の上手の越智
越前に 石王兵衛 龍右衛門 夜叉 文蔵 小牛 徳若と続出し、なかでも越前は能面制作の伝統があったようである。能面のなかでも比較的早く創作されたのは神・鬼といった超自然的力にあふれた鬼神の面で、ついで神の化身としての尉面、および人間味のかった老人の面が作られ、幽玄味の強い男面や女面がもっとも遅れて成立したらしい。
おおべしみ
世阿弥 父、観阿弥が基礎を確立した物まね中心の猿楽能を、幽玄美を理想に磨き上げ、今日まで生命が続くほどに能の芸能性を高めたのが、世阿弥元清である。比類なき美少年であった彼は、将軍義満や二条良基らの貴人にひいきされた少年期の好運に甘えることなく、生涯を稽古で貫き、父や犬王や同代の名手の長所を積極的に取り入れ、観客の好尚の変化に応じて芸風を発展させた役者であった。文才も豊かで、多くの能を作り、能のあるべき姿を論じた伝書の数々を子孫のために著した。縁者と作者と理論家とを一身に兼ねたわけで、日本文芸史上に稀な天才といってよかろう。小男であったと伝えられるが、その足跡はきわめて大きい。
夢幻能の完成 能を作ることが道の命と主張した世阿弥は、五十曲以上の能を作り、その大半が今も世阿弥当時と同じ詞章で演じられている。世阿弥作の能の多くは『伊勢物語』『平家物語』などの古典から舞歌にふさわしい人物をシテに選び、夢幻能と呼ばれる形式を採用した曲である。和歌的修辞で彩った流麗な文辞、音曲的魅力にあふれた作曲は、抒情と叙事の適度の配合やイメージの統一と相まって、見事詩劇を形成している。旅装などのワキの夢の形をかりて過去の出来事を舞台上に再現し、余情豊かな美的世界を現出する夢幻能形態を完成させたことが、劇作家としての世阿弥の最大の業績であり、能の特質・魅力は夢幻能に集約されているといえよう。
観世元雅と
観世元重
(音阿弥)
世阿弥の長男十郎元雅は、祖父や、父にも超える堪能であったらしく、「隅田川」「弱法師」「盛久」などの遺作が彼の非凡な才能を示している。だが将軍足利義満の圧迫を受ける不運な境遇のうちに、永享四(1432年)父に先立って没した。彼の作品に人間の悲哀を描いた曲が多いのも境遇の反映だろう。元雅没後に観世大夫となった三郎元重は世阿弥の甥である。足利義教にひいきされ、それが世阿弥の晩年の不運の遠因だった。能役者としては卓越した技倆の持ち主で、義教・義政両将軍の後援を受け、彼の時代に室町政府と観世座の結びつきは不動のものとなった。義政の後援した糺河原勧進猿楽は特に名高い。
金春禅竹 世阿弥没後の、能界を代表したのは、音阿弥と世阿弥の娘婿金春大夫氏信(法名禅竹)である金春座は大和猿楽四座の中でもっとも由緒の古い座であるが、一時衰え、世阿弥の教導を受けた禅竹の奈良を中心とした活動で再び興隆したらしい。禅竹は『六義』『拾玉得花』などを世阿弥から与えられただけあって、自身の『六義一露之記』『歌舞髄脳記』『五音三曲集』など多くの能楽論書を著述した。その理論はやや難解ながら、能楽論に新生面を切り開こうとした努力の跡が著しい。彼がまた能作の面でも『芭蕉』『定家』『雨月』など世阿弥の作風を継承しつつも独特の渋味を持つ佳曲を残している。世阿弥の継承者といってもよいであろう。
観世信光
長俊父子
応仁の乱は、能に大きな影響を与えた。室町幕府は弱体化、寺社の衰微などは、一般民衆の支持に活路を見出す方向に能を赴かしめた。音阿弥の子で太鼓が専門だった観世小次郎信光が、幼少の観世大夫(五代目之重、六代元広)を補佐する権守の地位にあって作った『船弁慶』『紅葉狩』『長良』などの能が、劇的な変化に富み、分かりやすく、にぎやかでショー的であるといわれるのも、能の新路線の反映に他ならない。室町後期になって能の音曲部分が独立した形の謡が普及し始めたことも、能の存続に役立った。信光の子でワキが専門だった弥次郎長俊も、父と似た傾向のにぎやかな能を作っている。
完成の時代

このころまで能面の創作が続けられ、一方では、整備も進み様式も完成し、種類もほぼ出そろったと思われるからである。新作面に古びをつける技術は下間少進と出目源介両人の工夫創案という。その少進の『童舞抄』『少進能伝書』などには曲ごとの使用面が書かれていて、互換性を勘案しながら次第に整備されつつあった当時の様子が窺われる。
生成
金春禅鳳
宮増
禅竹の孫にあたる、金春大夫元安(禅鳳)も、信光に対抗意識を持ちつつ、『嵐山』『一角仙人』など新風の能を作った。彼は『毛端私珍抄』などの伝書も書いており、芸談集たる『禅鳳雑談』には、兵法・茶・立花など他の芸道と関連させた説が多い。永正二(1505)年には洛東粟田口に進出するなど演能活動にも積極的だった。また室町後期には、世阿弥系統の夢幻能、信光らの新風能に加えて、宮増作などと伝えられる現在能形式の曾我物なども群小猿楽座から四座の演目に流入し、多彩な曲目で広範な階層を支持者とする努力が払われていた。謡がいっそう普及したこともあって、能は戦国乱世の時代にかろうじて生き続けたのである。
桃山期の
能の復興
かろうじて戦国時代を生き抜いた能は、豊臣秀吉の天下になって、にわかに時めいた。秀吉が稀代の能狂で、金春流の能を習って天皇の御前で演じたり、自己の経歴を能に作らせたりしたのみならず、廃絶寸前の状態だった薪猿楽を復活させたり、大和猿楽四座に千石前後の配当米を与えたりして能を保護したからである。養子の秀次や徳川家康らの武将も能を好んだから、他の群小猿楽座は解体したものの四座の能は空前の繁栄ぶりだった。おりから桃山文化の興隆期であり、豪壮な能舞台の様式が定まり、能装束は華麗となり、能面作家にも名手が続出した。能の演出や謡曲詞章の整備も進み、能はこの時期に大きく変貌した感のようである。
光悦謡本 謡の普及流行を反映し、慶長以後、江戸期には、おびただしい種類の謡本が出版された。その中で、装幀の美麗さが群を抜き、美術品として珍重されているのが、光悦謡本と通称されている観世流謡本である。これは秀吉の朝鮮出兵で招来された活字印刷の技術による出版物で、光悦流書体の木活字で印刷されている。書物の出版が開始されたばかりの段階で全百冊の光悦謡本が何種類も刊行されていることも、謡の人気を示していよう。
模写の時代

模作中心の時代であり、それは能の技法の完成と固定とも軌を一にしている。創作活動は停止し、もっぱら名作の写しが行われ、どれだけ本面に近づけるかが研究された。末梢的な技法に走ることになったのである。井関家・越前出目家・児玉家など世襲の家も決まったのもこのころである。
若女
江戸初期の能 徳川幕府も、秀吉の制度を踏襲し、四座の役者に俸禄を与えて能を保護した。元和年間に将軍秀忠の後援で前金剛座役者の喜多七大夫が一流樹立を認められ、四座一流が幕府の式楽(儀式用の芸能)を担当することになった。四座一流の筆頭を占めたのが観世座で、九代目観世大夫身愛(黒雪・暮閑)が早くから家康と結びついたことに由来する。その身愛没後に第一人者の地位を得たのが喜多流初代七大夫長能で、彼が秀忠・家光にひいきされたことが諸大名に影響し、地方諸藩には喜多流を採用した家が最も多い。五代綱吉が能を溺愛し、宝生流を後援したことが、加賀藩の宝生流採用に現れるなど、江戸期を通じて能は将軍の意向に左右される点が多かった。
江戸後期の能 幕府や諸藩は保護者であると同時に、厳しい監督者でもあり、能役者は技芸の鍛錬と伝統の継承を要求された。それが、能の魅力の一面たる芸の厳しさを生む一方、能から発展性を奪い、民衆から離れる結果を生んだのである。そうした動向の中で目に立つのが、十五代観世大夫元章の改革の試みである。将軍の能指南役の権威を背景に、彼は観世流の謡曲詞章の大改訂を志し、復曲や新曲をも加えた新しい謡本を明和二(1765)年に刊行した。その内容が時代錯誤の復古調であったため評判が悪く、十年後元章が没した直後、将軍家治の意向で新謡本は廃止されてしまったが、演出面の改革などは今も生き続けている。
弘化勧進能 寺社建立などへの寄付を名目に、入場料を取って公開する能が勧進能である。江戸期のそれは能役者のための催しに変質し、かつ江戸での勧進能興行は観世大夫の特権化していたが、十二代将軍家斉が宝生流を嗜み、宝生座が繁栄した余勢で、弘化五(1848)年に宝生大夫友于が筋違橋門外で晴天十五日間の勧進能興行を許された。町々に切符を割り当てる制度のおかげではあるが、多い日には五千人以上の入場者を数えた。その模様を克明に描いたのが『弘化勧進能絵巻』で、原本著者は斉藤月岑、掲出したのは大久保葩雪の模写本である。この弘化勧進能が江戸期の能が咲かれた最後の花で、幕末の風雲は能を逼塞させずにはおかなかったのである。
近代の能 明治維新の能にとって、未曾有の危機だった。俸禄と活動の機会を失った能役者は転業を余儀なくされ、脇・囃子・狂言方には絶えた流儀もある。しかし、五百年に及ぶ伝統の恩恵は大きく、外国の芸術保護に影響された政府の補助、皇室や旧大名の後援などで、世が治まるとともに徐々に能は復活した。座の解体に伴う新たな家元制度の強化などで種々の摩擦もあったが、明治末期頃には能は近代社会に再生することに成功したのである。昭和の戦災の大きな打撃だったが、いくばくもなく能は繁栄を取り戻した。新作能、新演出、他の演劇との興隆など、新たな動きも活発であり、海外公演もすでに年中行事化している。古典芸術への関心や憧憬が深まってか観客層も拡大が著しく、近年の能会の増加は目を見張らせるものがある。だが、こうした外見上の華やかさが真の能の発展と称するに値するか否か、にわかに断定できない。
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